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久しぶりのSYGK会20170713 [建物と街散歩]

久しぶりの『建築の散策 SYGK会』20170713

保険会社の地震調査で知り合った4人。
意気投合し、年に一回の建築・街散策を楽しむ会をすることにした。そして、今回は3回目。

先ずは佐藤氏の呼びかけで、初回は谷中銀座、二回目は安田氏の提案で、大磯の建築見学。そして、私の提案で武蔵美大から武蔵境と吉祥寺散策を楽しんだ。安田氏は50代、残り三人は60~70代。言いたい放題のうっぷん晴らし集まりである。 今回は急きょ、女性建築家の久坂さんの参加。

7月13日、10時に国分寺に集合。15分前に三人とも来ていたが、思った通りに、違う場所で待っていた。こんなに狭い場所でも、みんな思い込みがある歳。でも、ジャスト10時には顔合わせが出来たので良しとするか。
久しぶりに、2年ぶりだろうか、佐藤氏に会った。何となく雰囲気が違う、う…歳か?

西武バスに乗り、芦原義信氏の展示会の見学のために武蔵美大に行った。大学は住宅地域、文教地域(狭い道路を潜り抜けながら走るバス)にある。

まず、バスは大学前に停まる。最初に目に入ったのが、警備員集団。彼らの制服が気になったので尋ねたところ、警備会社の制服とか、環境・雰囲気を壊しているような気がした。そして、芦原氏はスケール感を大切(外部空間の構成)にしていたと思うが、大学らしくない、建物の乱立、芦原氏の設計のやりたい放題というのが、最初の印象。

芦原氏が亡くなった後を、大学の教え子が校舎の設計を監督している。そして、一度だけ図書館の設計・監理を外部(東大、ハーバード大の経歴に目がくらんだか)に頼んでいる。大学としての雰囲気、今までの建築手法を無視した商店建築デザイン設計。

マー日本人らしくてしょうがないか。アメリカ、ヨーロッパにしてこんな大学雰囲気はない。
1時間半足らずの見学、そして当社の事務所を見ていただき、井之頭公園近くのピザ屋さんに1時、井之頭公園見学、漫画家のまこと君の家を見て、2時30分までの集まりで、解散した。

170713井之頭4人.JPG

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 『旅にゆくえ』 『名画の土壌』 『歌に詠まれる絵』 画家の世界 [私の読書]

日経新聞 『旅にゆくえ』『名画の土壌』『歌に詠まれる絵』から

「葛飾北斎」 洋画家 久野和洋

江戸時代後期の浮世絵師として活躍した葛飾北斎は、日本人画家として最も広く世界に知られた天才画人である。90歳の天寿を全うした北斎。

晩年の北斎が自ら書き残した文に「自分は6歳から物の形を写す癖があった。50歳から多数絵図を描いてきたが、70歳までの物は取るに足らず。73歳でやや生き物や植物のことが分かり、さらに研鑽し、90歳で奥義をきわめ、100歳で神の域、それを越えて描く一点一画はまさに生きているものであろう。長生きの人は私の言葉が妄言でないことどうか見届けてほしい」高名ながら生活は質素で、なぜか狭い借家を生涯生涯で93回も転居した変人。諸国を旅し、絵を描くことのみに生きた画人。


「ジャコメッティ」   洋画家 久野和洋

スイスに生まれたジャコメッティは、ジュネーブの工芸学校で彫刻を学んだ。パリで芸術活動を始める前、20歳の時にイタリアに約1年滞在し、ヴェネティアやローマを旅した。その間、チマブーエやジョットの絵画、中世のモザイク画、エトルリアの古代彫刻などを見て感動したと言う。新たな表現を求め、国境を超え、様々な時代の美を旅して自分の目を養い、独創的な表現を獲得した。
「自分が見ているもの、それに達する表現は難しい。いくらとらえても逃げてしまう」。画家・彫刻家のジャコメッティは、パリのカフェで友人の哲学者、矢内原伊作にそう語っている。
細長く凝縮された形の人物直立像が多い。

人間存在の真実追求「ジャコメッティ展」六本木の国立新美術館で9月4日まで



  「コロー」   洋画家 久野和洋

光と影についての鋭敏感覚と揺るぎない画面構成。そこに古典的で新しいコローの作品の特質がある。

家業の卸売商を継ぐのを断念、画家となる決意をし、本格的に絵画の修業をするためにパリからイタリアに旅立ったのが29歳のとき。ローマを拠点に約3年間、フィレンツェのほかイタリア各地を訪れ、多くを学んだ。
「自然に回帰することに飽きてはならない。自然を軽視すれば、二度と友でいてくれなくなる。自然は嫉妬深い恋人である」
巨匠ドロクロワは、「現代風景画の父」と高く評価した。
さらに、ゴッホ、セザンヌも影響を受けた。信義に厚く、人情家でもあったコローは、仲間からも尊敬され、愛された。1875年、独身のまま78歳で死去した。

「ゴッホ」   歌人 梅内 美華子

ゴッホの代表作の中で「ひまわり」は光、「糸杉」は闇と言われる。糸杉は、南仏アルルの地で精神に破綻をきたしたあとのゴッホの心の状態を映している。敬愛したゴーギャンとの共同生活は二カ月で終わり、自ら左耳を切り取った。アルル郊外のサン・レミにある療養所に入院中に糸杉は描かれた。

「ティツィアーノ」  歌人 水原 紫苑

この『ウルビーノのヴィーナス』ほど華麗で官能的な絵はまれだろう。挑発的な視線をこちらに向けるヴィーナスの脚の向こうに、貞節の象徴と言われる、小さな犬が眠った形をしている。だがよく見ると犬は薄目を開けてちらちらご主人様を見ているようだ。

「タナー」   洋画家 奥西賀男

タナーは理髪師の父の下、ロンドンに生まれた。母の病に苦しめられながらも、画家を志した。写真の無かった時代、画家は理髪師や大工と同じ職人であった。
海や船に興味を持ち、水のあるところを好んだ。当時流行の肖像画はあまり描かなかった。
秘密主義、住所は明かさず偽名を使うなど謎めいたところがあった。
天性の才能と頑固な反骨心によって、英国の最高の巨匠となった。
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「住まいのまちなみコンクール」旧山陽道『矢掛宿』 [建物と街散歩]

私の郷里『矢掛』が、国土交通大臣賞をもらった

何も自慢することが無いと思っていたのでうれしい。
両親も、唯一の友も他界して、ここ何年も家に帰っていない。何かさびしい。
今は長男の兄が全てを継ぎ、木材業を経営している。

私の家“矢掛の木材工場”と言えば、小田郡では誰でもが知っている。
昔は金貸し、金庫の中の貸付台帳を何冊も見た記憶がある。早くから、ステレオ、レコード、バイオリンとあったが、私は一つも身に付かなかった。

テレビも町内では、早くから買い、近くの人達が見に来ていた。1960年代、父が日産スカイラインを乗っていた。冷蔵庫も購入したのが早かった。お手伝いさんも二人いた。などなど思い出がある。
小学校・中学校の頃の思い出は、小田川の魚とり、自宅のピンポン、運動会の800m、マラソンランナーなどなど今思えば、楽しいことの方が多いかな‥‥。

父も亡くなり、母も五年後、あっという間に亡くなった。二人とも非常に元気だったのに、孫の介護・手術をしてもらって、両親も満足してあの世に行ったことだろう。


「住まいのまちなみコンクール」旧山陽道『矢掛宿』

審査員 日本建築士会連合名誉会長 藤本昌也

2013年度 第8回となる今回は国土交通大臣賞を「備中矢掛宿の街並みをよくする会」が受賞した。

『評価のポイント』 藤本昌也氏

矢掛の歴史は相当古く、生みの親が何世代にもわたっています。本陣・脇本陣がともに現存しているのは大変珍しいそうです。先ずはその歴史の厚さに注目し、誠んぞ先祖ががんばってつくってきた街並みを行政任せにせず、住民たちで費用も、知恵も出し合って保存、再生することで今の生活を豊かにしようという育ての親の自立した姿勢を高く評価したのです。また、「花いっぱい運動」や観光ボランティアの養成など様々な活動展開し、継続的に成果を上げています。 

 とかく矢掛のような歴史的地区では、まちを“凍結保存”してしまいがちです。それでは生活がなく、映画のセットになってしまう。しかし矢掛にはちゃんと人がいて、生活があります。「ハードではなくソフトが大切だ」と言われるゆえんです。しかし、一方で、ハードがしっかりと仕込まれていると、すまい手も街並みづくりに目覚めるものです。ハードも大切だと言いたいですね。以上

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私の人生は70歳 [歳とること]

『わたしの人生は70歳』


私の人生は70歳と決めている。私が60歳になったときに決めた。そして、今また再度その意志は強くなった。

廻りの友人が亡くなる。2012年12月9日、郷里の友、彼がいるからこそ帰るのが楽しみでもあった。そして、今年になり、NFで派遣社員として採用されたときの担当、小林課長の亡くなるまでの姿を見てきた。顔に艶が無くなり、小さくなり、声もかけられないような姿になり、知らないうちに姿が見えなく…そして、亡くなったことを知った。54歳だった。そして、最近、非常にお世話になっていた人が亡くなった。

『わたしの人生は70歳』と決めた時には、仕事の裏付けのようなものがあったからこそかもしれないが、その時に2つだけは守ろうと決めたことがある。

1:夕食は妻とふたりでする。

2:年に一度は、自分への褒美に海外旅行をすること。

そのためにも、仕事を見付け働かねばということは当然わかっていることではある。
昨年、2016年3月8日に契約が破棄されたことを告げられた。

人生計画の収入が途絶えた時、妻から背中を押されて
4月1日から、N社の派遣社員になり、新しい環境で働いた。67歳の誕生日も、N社で向えた。
“大丈夫ですか?”と何度も言われながら、色々があったが、新しい環境で新しい設計監理の姿勢を
知ったことは、私の知識になったことは、大きなことだった。

「常に、学ぶことを忘れないように生きること」の大切さも教えられた。

詩人ルイ・アラゴンのいう「教えるとは共に希望を語ること。学ぶとは真実を胸に刻むこと」


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