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石川直樹 『旅とはなにか』 [建物と街散歩]

異見 新言 『旅とはなにか』 写真家 石川直樹 日経200180412

旅とは1.jpg旅のかたちは時代で変わる。高校以来、世界を歩き、01年のチョモランマ登頂で当時の世界7大陸最高峰登頂の最年少記録を更新した石川直樹さんが「今ここにある」旅についてつづる。 北極であろうがヒマラヤであろうが、そこに行って何を 体験するするかが重要なのではない。大切なのは 心を揺さぶるな何かに向かい合っているか否かということではないだろうか。

本来の旅とは自分を変えるために行うものでも癒しのために行うものでもなく、自己と世界との関係を確かめ、身体を通して自分が生きている世界について知る方法ではなかったか。
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京都の愉しみ [建物と街散歩]

《京都の小旅行 2016年7月16日と17日》


2016年7月15日、仕事を終えて、夜行バスで京都に行った。
倉敷の木彫の大野さんに誘われるままに、祇園祭の鉾に乗れるとのことで京都に行ったが、もう暑くて観光どころでなく、一日ほとんどスタバにいる羽目になった。

翌日、大野氏と別れて深谷さんと食事をし、少し観光をした小旅行だった。


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熊本と日本列島の地震 [学ぶこと]

《熊本と日本列島の地震》

地震は2016年4月14日震度7、この時は長崎も地震があったそうだ。山にしがみつく様に建てられている建物群は大丈夫だったそうだ。奇跡としか思えない。

熊本地震.jpg


4月16日震度7の本震。この時に私の大好きな熊本城にも被害が及んだ。あの美しい姿、雄姿はいつ見ることができるのだろうか?

友人は4月24日から地震の調査に入った。飛行機は、福岡空港からバスで調査地に行ったそうだ。調査は八代市からの調査だった。まだ熊本には危険のため入れなかったそうだ。ホテルも危険な状態だった。東横ホテルだけが大丈夫だったとか。
僕は、連休を利用して4月29日から1週間の調査。やはり、福岡空港からだが、当日は新幹線は動いていたので、利用して熊本に行く。多くのホテルが被害にあい、利用できるホテルは限られていた。予約無くては利用できない状態。私の利用したリバーサイドホテルも、危険と書かれた張り紙はあったが、玄関側でなく、裏側からホテルに入ったのが、一層の恐怖を感じた。
その日から毎晩深夜に、3時頃だったか3日間、4日間と震度4が続いた。

地震日本列島.jpg


20160819日経新聞
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長崎の旅 2016.5.2~5.4 実測とスケッチ [建物と街散歩]

《久しぶりの長崎旅行 2泊3日の旅》

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山に張り付くように建てられている住宅群、熊本のような地震があったら大変なことになる。
大丈夫なのだろうか、心配になる。

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「出島」


2016.3.2から2カ月間が過ぎた。

平和公園、出島、今井兼次の建築二十六聖人殉教地・記念館、オランダ坂、大浦天主堂、旧グラバー邸のイメージがあったが、坂本竜馬の亀山社中などたくさんの建物のイメージがある。食べ物は、カステラ。
もう一つ忘れてはいけないのは、いんげん豆。とにかく売られているいんげん豆が大きかった、これも気のせいか?)だが建築仲間が薦める観光先は軍艦島だった。

知識メモ:隠元禅師は(第4代興福寺の住職 1654年入山)、
数多くの事を日本に伝えた。有名な名前に禅師の名が付いたインゲン豆。さらに今は和食に分類する胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。すいか、なし、れんこん、なすび、もやしなどの野菜果物、印鑑に木魚、ダイニングテーブル。そのほかにも煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり/中国僧の精進料理)など、とにかく現代の日本で馴染み深いものばかりだ。

二日目は、止んだり、降ったりの大雨の一日だった。傘を差しての観光になったが、その時に立ち寄った亀山社中記念館、眼鏡橋のそばのお店の人との出会いは楽しかった。
そして、眼鏡橋が一番良かった。そして、その次に美しいのが桃渓橋 延宝7年(1679年)。
橋の名前は、河畔に多くの桃の木があったことに由来している。

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桃渓橋と興福寺


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「眼鏡橋」


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「桃渓橋のカンランの実測」

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矢内原伊作  ジャコメッティ [私の読書]

【矢内原伊作 ジャコメッティ】


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この本を読んで、好きな会話がある。

「けさがた私はたいせつな発見をした。」せっせと筆を動かしながら彼は言う。「それは鼻の先端から始めなければならないということだ。顔の全ての部分は鼻の先端から始まって背後に向かう動きの中にある。鼻は一つのピラピッドだ。上から見たピラミッドさえ描くことさえできたら、他の部分は自然に出来上がるにちがいない。」それからまた、「きみの顔に似なければならない、しかし似なることを恐れてはならず、似せようとして描いてはいけないのだ。」‥

「私にとっては君の鼻がすでにピラミッドだ。君の顔がすでにスフィンクスだ。ああ、君の顔の中央のこの小さなピラミッドが幾らかでも正しく描けたらどんなに素晴らしいか。鼻だけだけではない、きみの顔のあらゆる部分が幾つものピラミッドから出来ている。それを捉えるのはほとんど不可能に思われる。」‥「きみ自身がピラミッドなのだから、何もピラミッドを見るためにエジプトまで行くことはないだろう。‥」

「明日まで、いや明後日まで待ってくれ。明後日まで続けてみて見込みがあればよし、もしも見込みが無いようなら放棄しよう。‥私はすべてを失うことになる。私は職業を変えなければならない。」

延々とモデルを何時間、何日間もモデルの矢内原氏とジャコメッティとの間でやり取りが続いた。しかし、完成はしないままに終わる。 恐らくすべての作品が彼が納得したものではないのだろう。
一方、全てが売られていく。どんな気持ちだったのだろうかと思う。

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アルベルト・ジャコメッティ 2 [私の読書]

新聞からの切り抜きで
「56年、哲学者・矢内原伊作氏が帰国直前にジャコメッティのモデルを務めることになり、その後4度渡仏して、のべ230日ほどポーズをとり続けた。」
これが気になって、三冊の本を、図書館から借りた。「矢内原伊作 ジャコメッティ」「アルバム∥ジャコメッティ」と 宇佐見英治著「見る人」ジャコメッティと矢内原

身内と友達に聞いても、アルベルト・ジャコメッティ知っている人はわずかだった。
イギリスのオークションで有名なサザビーズ・ロンドンで、2010年に『歩く男』1947年作、177.5cmのものが、91億円labaq.com/archives/51388571.html

私もそれほど知っているわけではないが、どうしてモデルをするようになったのか気になった。
それは、「アルバム∥ジャコメッティ」の中で、武田昭彦氏の解説文に書かれていた。

1954年~1956年パリに留学した。“ジャコメッティは前から会いたいと思っていた芸術家の一人だった。しかし有名人を用もないのに訪れてゆくことを僕は好まない” “十月末のある午後、、一つの画廊のガラス戸越しに、‥ジャコメッティの一枚の絵があるのが眼にとまった。‥画廊を通じて、手紙を送る。1週間ほどして、ジャコメッティから返事”その後、何度か会う。“10月4日、世話になったジャコメッティに帰国前の挨拶にとアトリエを訪ねる。そのとき、「うまく行くかどうかわからないが、明後日夕食に行く前に1時間くらい君の顔のデッサンをしよう」と言う。
10月6日、ジャコメッティは、はじめて矢内原をデッサンする。最初の一枚は30分で出来上がる。ジャコメッティは「美しい、すごい、すばらしい」などと嘆声を上げ、「こんな風にデッサンするのははじめてだ、どうしていいか分からない、しかし何とかなるだろう。もう1枚やってみようと」と言う。”この描写は、矢内原氏が書いた【矢内原伊作 ジャコメッティ】を読んでほしい。芸術家ジャコメッティと矢内原氏との苦闘が、生のような描写が読み取れる。

矢内原と同年の友人宇佐見英治著  『見る人』から、気になったこと。

1:“ジャコメッティは芸術家として、格別賢明な人であった。「それは論理的でない」というのが彼の口癖であった。見えるものを見える通りに描くことに生涯を傾けたこの画家にとっては、芸術はそれ自身が目的でなく、見るための手段であり、見ることは生きること、より深く見ることは、より自由により強く生きることであった。”

2:“私は彼の風貌がだんだん写真でみるジャコメッティの風貌に似てくるのを感じた。‥私はジャコメッティにそのことを話した、彫刻家はいった。「きみもそう思うかね。私も矢内原と私は似てきたと思う。しかし、それは不思議なことではなく当然ではなかろうか。毎日、見たり見られたりしているのだから、‥」

そうだよね。夫婦は本当に似てくる~
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